FTMという言葉を手に入れて、ようやく言葉にして自分が何者であるかを理解することができたように思う。今までになく、自分自身について考えなおし、見つめなおし、言葉にしていく日々が到来した。
私はFTMという言葉を手に入れたことにより、「FTMになった」。インターネットや本から取り入れたFTM像によって、私は自らを定義しなおし、見つめなおし、自分が何者であるかを知ろうとした。——FTMという概念がどうやらあるらしい。そして、FTMという言葉が自分を「オンナ地獄」から救ってくれるらしい。FTMでなくなったら、自分はオンナ地獄で生きるしかない。いや、死ぬしかない。そう思った。
読者の皆さんにも是非想像していただきたいのだが、今まで自分には関係がないと思ってきた「社会的少数者」「トランスジェンダー」の生き方が、自分自身の生き方とすごくシンクロしたとき、私は何かにしがみつかないでは、自分自身を支えることができなかった。「男女ゲーム」は瞬間ごとに、壮絶な闘いや葛藤をひきおこす。その痛み、苦しみの激しさから逃れるためになら何でもできると思った。そんな中だからこそ、FTMという言葉は、蜘蛛の糸のように私の目前に垂れ下がり「これしかない」とささやいたのだ。
私は「FTM/オトコであること」を自分に強制し、自分をますます縛りつけ、苦しめていった。いわく、オトコなんだから「女の子たちとあまり仲良くしてはならない」「可愛いストラップをつけちゃいけない」「性別欄のオトコに○をつけて安心できる人間でいなくちゃいけない」等々だ。
FTMになることで自分がオンナ地獄から脱出できると考えても、相変わらず「男女ゲーム」の盤上にしか私はいなかった。
自分のありのままを認めてくれる友達との出会い、特にLGBTの同世代の友達との出会いによって、私は「何者にもなりたくなかった」ことにようやく気がついた。
オトコやオンナ、トランスジェンダーやFTMにもならなくていい——。そう初めて気がついて、随分と拍子抜けしてしまった。遠回りして結局それかよ、と泣き笑いみたいな気持ちだった。